共有可能だと幻想される絶対的価値観。。。
moriさんのところにコメントしたものをベースに書き直しています。
以下、「もし、絶対的価値観があったなら」という想定からスタートした思考です。 1.知的世界に、共有可能だと幻想される絶対的価値観が出現する。 2.「私」と「あなた」とが「交換可能」だというとき、すなわち、あらゆる人間・生命体の中心を「重ね合わせ」ることができると知的世界にて想像するとき、仮想中心からの平均的ないし最大公約数的方向性の一つに「生きようとすること」がある。 3.すなわち、「生きようとすること」の方向性は、「共有可能だと幻想される絶対的価値観」の一つになる。 4.また、「生きようとすること」と同様の抽出方法で、「共有可能だと幻想されうる絶対的価値観」の一つとして「快」や「美」も、抽出されうる。 5.同様の論法で、すなわち「生きようとすること」を「死のうとすること」に、「快・美」を「不快・醜」に置き換えることで、それぞれの反対方向への「共有可能だと幻想される絶対的価値観」にも言及可能。 6.しかし、そう考える「わたし」や「あなた」の考え方にも依存する。今から「死のうとする」人にとっては、「死のうとすること」と「快・美」との方向性が同じになることがある。 さて、こういった像は、「全体・総体」を「知的」な視点(重ねあわせ可能な仮想中心)から見たときに現れる。 でも、現実には、個々の中心は重ね合わさることがない。「価値観は相対的」というのは、まさに、「中心を重ね合わせることが不可能」(=「わたし」と「あなた」は「交換不可能」)ということでしかない。すなわち、「相対的」である。しかし、この「相対的」ということだけで、=「共有可能だと幻想されうる絶対的なものはない」とはならない。 (下線部分追加:041224, 06:25) しかしながら、もし「差異」のみが強調されるときは、「交換可能」な価値観(最大公約数的な価値観)を既に消し去っている。すなわち、「共有可能だと幻想されうる絶対的価値観」の方向を問わないという立場に立っていることになる。 「最大公約数」がゼロなのかプラスなのかマイナスなのか、その判断を誰がするのか? ゼロだといったとき、「相対的価値観」は「価値観の差異」そのものと一致し、「判断の中心」に「虚無」を想定していることになる。逆に言えば、ゼロになるように価値観の判断中心を動かしつづけていることにも相当する。これは知的操作のなせる業であり、まさに共有し得ないことを共有するという「否定神学的な共同体」と一致するところがあるように思える。 プラスないしマイナスだといったとき、「相対的価値観」は(プラスないしマイナスの)「共有可能だと幻想されうる絶対的価値観」に「価値観の差異」を加算したものとなる。 この場合、「判断の中心」には、何らかの具体的(ないし抽象的)な存在に立脚しなければならない。 「生」に立脚するのか、「死」に立脚するのか、「遺伝子」に立脚するのか、「知」に立脚するのか、「神」に立脚するのか、「情」に立脚するのか。。。 moriさんは、その立脚点に「審美眼・審美心」を置いた。 しかしながら、どこに立脚点を置こうとも、「知的世界」の内部で扱われることには違いがないし、「審美眼・審美心」共に、すでに「価値観」と表裏一体のものである。 で、そもそも「価値観」は、なぜ生じるのであろうか? また、「共有可能だと幻想される絶対的価値観」は「ある」のだろうか、「ない」(すなわち「虚無」である)のだろうか? まず、後者の疑問から。。。 人が争い、いがみ合い、戦争をし、殺しあう。 人が仲良くし、助け合い、平和を求め、共生しあう。 そういったことが、現に行われているということは、 「共有可能だと幻想される絶対的価値観」が「ある」ということを示している。 即ち、 「共有可能だと幻想される絶対的価値観」が「ない」(この場合、「ない」ということも共有されないという点で「絶対的に虚無」である)のなら、共有そのものが絶対に不可能ということで、人と人(ないし物)との関係は生じ得ない。 立脚点が様々にあるゆえ、「共有可能だと幻想される絶対的価値観」はプラス、マイナス、ゼロを揺らいでいる様に思われる。まさに「共有可能だと幻想される」様、そのものである。 逆説的かもしれないが、「共有可能だと幻想される絶対的価値観」は、幻想可能ゆえに「ある」といえるのだと思う。 で、その「幻想」は、どうして生じるのであろうか? すなわち、そもそも「価値観」は、なぜ生じるのであろうか? 「脳構造」と「脳機能」、「脳」と「身体」にその起源を求めることは可能である。まさに「唯脳論」そのものになろうかと思う。「情」「知・情」の構造は、(知的には)「大脳辺縁系」と「皮質」との関係そのものといえる。そういった観点からの説明もおそらく可能である。しかし、「脳」との対応があるからということは、何ら解答になってはいない。少なくとも「情」は、「脳・身体」を越えて「他」との「関係」を含めた「総体」にある。 結論から言えば、「知」と「情」との関係が「ある」以上、そこにこそ「価値観」の根源があると思う。「共有可能だと幻想される絶対的価値観」は、「知」が「総体としての情」を記述(記号化)しようとするときに「知」の限界である「境界面」に映し出される「総体としての情」の影にしか過ぎない。たかが「影」であるが、それを持ってしか「共有可能」とはならない故に、その本質を見ようとするのであり、逆に本質を見ようとする姿勢こそが「幻想」を生み出す力となっていると考える。
by kisugi_jinen
| 2004-12-23 07:29
| 思考。。。
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from 来生自然の。。。
at 2008-03-26 05:32
タイトル : 人の命の(知的)切断。。。国家による大量殺戮と個人による..
その昔、 「な ぜ 人 を 殺 し て は い け な い の で す か ?」 と、「知的」に問う人がいた。。。そうして「知的」に答えようとする人々がいた。。。 国家という単位では、今も昔も、イデオロギー(○○主義)の「知的」優位性が情を切り裂き、多くの人々の命を切断していく。。。 そうして、今も昔も、刃物をもって人の命を切断していく人。。。 土浦での無差別殺人。。。 幼き頃、殺人鬼というものは、知的なタガが外れて、衝動的(欲情的)に人を殺してしまうのだと思ってい...... more
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