「水は答えを知っている」と、「他人の落とした大吉」の関係。。。
前回までの2つの投稿(1,2)は、あまりに根本的なレベルに終始してしまったので、そろそろ、本論へ。。。
さて、前回までの2つの投稿で言いたかったことは、 情によって結び付けられたものを知的に分断し、それによって情のなんたるかを語ろうとすること自身が、すでに「愚かしい」行為だということ。 さらに、そこにおいて語ることのできるのは、知的には切断された事象の切断面だけのようにも思えるが、それだけではない。 切り口は、新たな接続相手を求める。すなわち、「主体から切断された情の切り口」に「別の情の切り口」が結び付けられることによる「情の誤認」を簡単に含んでしまうということが、一番の問題であろう。 この際、はっきり言っておこう。。。 「水は答えを知っている」は、著者と水との関係であって、あなたと水との関係ではない。 はっきりいってしまえば、「トンデモ本」である。 ただし、彼は水の結晶に、「求めたい何か」があった。 そこのところにとどめ置くべきだったともいえる。 彼は、彼と水の結晶との間の切断不可能な情的関係を知的に示したいがために、やってはならない行為をやってしまった。すなわち、「紙に書いた字」という、情報の状報による知的切断である。 その切り口に、人々は群がる。。。 他人が落として行った「大吉」のおみくじを拾うようなものである。 もしかしたら、「拾う」ということ自身が「大吉」かもしれない。 でも、当たったから「大吉」というわけでもないし、ましてや、拾ったから「大吉」というわけでもない。 そういったレベルでの話でしかないのだけれど。。。 彼にとってこそ意味があるというのに、他人には、何の意味も持たない切断された記号。。。 そんなものですら求めてしまう「情」は、もしかしたら、「知」によって、ずたずたに引きちぎられて、つながる相手を捜し求める「切り口だらけ」なのかもしれない。。。
by kisugi_jinen
| 2004-12-08 04:29
| 思考。。。
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from 来生自然の。。。
at 2019-01-08 07:23
タイトル : 「大吉のおみくじ」を本当に拾って運勢を自身のものと解釈し..
「水は答えを知っている」と、「他人の落とした大吉」の関係。。。上記の記事が何故だかアクセス上位に上がって来たので気になっていたのだが、どうやら水伝がらみではなく、大吉のおみくじを拾ったケースについの検索対象となっているからのようだ。そもそも、落ちてるおみくじを拾おうなんて気持ちになったことが無い。(信じている人の場合には)そこに至る経緯に、幾ばくかの怨念が絡んでる可能性もあり得ると、思わないのであろうか?そう言ったものが絡みついたものを拾おうなんて、1. そもそも、おみくじの背景にある、いわゆる「目...... more
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