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信じるということ。。。再々考。。。
信じるということ。。。再び。。。
および、そのコメントで、「知」的領域と「情」的領域との関係から、曖昧な記述を行っていたが。。。

よくよく考えてみると、知的・情的という分離そのものが不可能(というより、それらは側面同士・紙の裏表のような関係なわけであり、

情的なもの=「対象と主体と方向性を有するもの」は、知的に捉えようとしたとき、「そのもの」ではなく、「方向性のみ」を記号化しているという定義であった。

知的領域では、「交換不可能な自己の自己参照系」から派生する「自己の自己に対する絶対優位性」に基づいて、「信じる」が生じるという説明をおこなった。

で、「交換不可能な自己の自己参照系」は、「情的なもの」の定義から「対象=自己」、「主体=自己」としたときに、そのまま成立してしまう。

すなわち、「知的」なものが「静的」であるゆえに、その他に「時間」と「方向性」とを別に定義しなければ、「交換不可能な自己の自己参照系」を説明できなかったのが、
主体と対象と方向性を含む「情的」なものであれば、余計な「時間」とか「方向性」とかも既にその内部に含まれてしまっているからである。

したがって、「知的側面」からも「情的側面」からも、(それらを「知的・記号的」に扱ってしまうことになるが、)論理的・無矛盾に「交換不可能な自己の自己参照系」から派生する「自己の自己に対する絶対優位性」の説明が可能であるということになる。
by kisugi_jinen | 2004-11-27 00:13 | 思考。。。 | Trackback | Comments(1)
Commented by kisugi_jinen at 2004-11-27 02:13
断るまでも無いが、あくまで「自己に対する自己の」である。
この部分を拡大解釈して、というより、無意識の内に外部へ適応してしまうとき、「宗教の押し売り」が発生するのだろう。。。
<< 物質的側面の境界。。。精神的側... 情の知的分断と情への回帰。。。... >>



「ともし火に我もむかはず燈(ともしび)もわれにむかはず己がまにまに」(光厳院) --- 厳然とした境界を越え得ぬとき、その上でなお、越えうるものがあるとすれば、それは「情」である。

by kisugi_jinen
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